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[ 2024/11/22 14:24 | ]
7月15日、大学奪還の旗を揚げよう!
京大生&全世界のみなさん、6月30日の集会で発表させてもらいました「大学奪還学生行動」は、7月15日、ついに旗掲げいたします。
この度、その呼びかけ文が完成しましたので、紹介させていただきます。

7月15日は、みなさんこぞって文学部新館第一講義室へご参集いただき、ともに大学を奪還していきましょう!



大学奪還学生行動呼びかけ文

 

(1)今、大学がおもしろくない!

 

 京大生のみなさん、授業、楽しいですか?

 

必修科目の一般教養、落とすわけにいかない語学、欠席は年に三回まで、単位のための試験・レポート・・・

 

カリキュラムに組み込まれれば組み込まれるほど、内容が空洞化され求心力を失っていく授業。出欠とるなんて考えられなかった、なんて逸話はどこへやら、いまやきっちり出欠をとって単位取得の条件を厳しくしないことには、学生を集められないほどです。

 

 加えて、授業料は値上げ、休学の条件は厳しくなり、授業の二重登録は禁止・・・、知らない間に色々なことが勝手に決まっている。サークルや寮、学祭などにも大学当局が何かと干渉してきています。最近では法経本館地下のピロティ入り口にカードキーが設置され、法学部生以外は入ることすらできなくなってしまいました。大学当局よ、学生を管理や規制で締め上げるのが楽しいのですか?

 かくいう次第でこの度、私たちはこのおもしろくもない大学をおもしろく変えたいという思いで行動を開始することにしました。そして、おそらく大勢いるであろう思いを同じくする学生の皆さんに、一緒に大学を変えようと呼びかけます。

 

(2)なぜ大学はおもしろくないのか?

 

 「大学がおもしろくない?それはお前が努力しないからだ。嫌なら辞めろ。自己責任だ」世間にはこんな風に学生に有形無形の圧力を加え、学生の主体を貶める力学が働いています。

 しかしながら、「大学がおもしろくない」と感じている学生は地球上に結構たくさんいるのです。

 ヨーロッパの大学改革政策「ボローニャ・プロセス」。この政策は「ECTS=欧州履修単位相互認定システム」に基づいて欧州全域の学生を単一の基準で評価できるようにして、労働市場の要求に適合させるというものです。そして、「学生の努力を勉学の負担量で測定する」という基準を据え、授業内容をどれだけ理解したかではなく、イスに座っていた時間と課題をこなした「負担量」に応じて単位を与えていきました。どうです、こんなカリキュラム、いかにも耐え難い授業になりそうではないですか?だからドイツの学生は「学校化」反対を掲げて大規模な抗議行動をおこないました。

 そして、同様の改革はアメリカでも中南米でもアジアでも行われています。日本でも法人化以後、各大学に経営評議会やら経営審議会やらが設置され、企業による寄付講座=授業の買い取りなどが進められています。

 

 加えて、学生の主体的な行動を大学当局がつぎつぎと弾圧していく中で、大学はさらにおもしろくない状況になっています。 

 象徴的なのは、東京の法政大学です。当局はサークル自治会の幹部を取り込む一方で、「ビラまき規制」に抗議する学生を「管理権侵害」などを理由に逮捕、処分しました。ビラをまくことすら許されないキャンパスに、表現の自由があるでしょうか。

 東北大学では、学生自治寮が強制廃寮にされましたが、代わって新設されたのはPFI(民間資金主導)型寄宿舎。ここでは家具の持ち込みは禁止され、学生は高額のレンタル料を払って家具を借りざるを得なくさせられます。在寮期限はたったの一年で、退寮後のアパート斡旋は寄宿舎を運営する不動産会社が独占。富山大学でも寮を同様の形態にして金儲けの道具にするための改修が強行されています。

 広島大学では、サークル活動予算に関して「地域貢献度に応じた予算配分」を当局が提案し、カネでサークル同士を競争させようとしています。

 そして、京都大学では西村副学長が寮自治会との団体交渉で「最終決定権は大学にある」と宣言し、学生自治を真っ向から否定。彼の言う「大学」とは、予算をくれる文科省と企業の「意向は無視できません」と言っている数人の役員会がすべてだということです。大学とは、大学を構成しない人間の意向に服従する存在だとでもいうのでしょうか。 

 

 大学における規制は一般的に学生の意思や決定は反映されません。当局による規制の先には「教育」の営利化があります。

 しかし、それでうまくいくのでしょうか? いかないということの証明として私たちの「おもしろくない」という感覚があります。

 そもそも学問とは批判を本質とするものです。現在を乗り越え、新しい地平を切り開くものであり、学問の歴史的到達点は、それに人間をかしずかせるためにあるのではなく、新たな世代が乗り越えるべき課題を明確にさせるためにこそあります。そして、それが可能になるのは学生が主体性を発揮する時です。

 私たちは、批判的精神であり学生の主体性こそが学問と教育の本質であると考えます。しかし授業においては主体性を否定し、自治にまで介入して決定権を奪い取っていく当局の支配のもとで、今や学生が主体的に何かを考える機会は極限まで奪われています。いま当局のやっていることは本質的にはもはや教育と呼べるものではない、そう私たちは考えます。

 現実問題として、当局や文部科学省や資本家による教育は破産しています。「7割が法曹になれる」と言われた法科大学院は3割にも満たない合格率で、撤退が相次いでいます。年間300万円の学費を毟り取られた学生を何の保証もなく放り出すそのありさまは国家的な詐欺とさえ言われています。しかし、政府は性懲りもなく次は教員養成過程を大学院化して、さらに学費でもうけようと舵を切っています。

 国公立大学でも「民間開放度調査」が実施され、大学業務をどれだけ儲けの対象にできたかを競い合う状況が生み出されています。広島大学では、生協の自販機に対して、「土地は大学のものだから儲けをよこせ」と当局が言い出すに至っています。学生をむさぼり尽くす対象とするような大学への変遷はもはや末期とよべるような状態です。

 

 なぜにそんなことを大学当局や国はやるのでしょうか? 学生から金をふんだくるのが楽しいからでしょうか? だとすれば当局はとてつもなく嫌なやつらだといわざるを得ませんが、そういうわけではなくて、西村副学長も寮自治会との団交で述べているように、「予算が削減されている」ということに根底的な原因があるようです。

 日本の借金は800兆円を超え、地方の借金なども合わせれば、その総額はもっととんでもないことになります。鳩山前首相は子供手当てだとか、高速道路無料化だとかを公約に掲げて予算を大幅に増やしましたが、結局借金がべらぼうに増える結果となりました。代わって登場した菅首相は手のひら返して「消費増税」と言っていますが、毎年50兆円近く借金している現状に対しては焼け石に水にすらなっていません。この中で、教育が公的保障を失い、営利の対象となっていっているというわけです。

 

 ではこの現実や趨勢は変わることのないことなのでしょうか? 人間がもはや教育をまともに担えない存在に成り果てたのでしょうか? 私たちは、人間がそのような存在になったとは思いません。教育を保障できないのが大学や社会の現状であるとするならば、そんな大学と社会のほうを変えればいいだけのことです。

 そして、それは可能です。菅首相が「財政が破綻してこのままではギリシャになる」と悪い状態の見本のようにいうギリシャでは、政府が国家財政の破綻を増税、年金削減、公共部門の民営化などで民衆に転嫁して、それによって国債を購入しているゴールドマンサックスなどの証券会社の利潤を確保しようとしていますが、労働者が大規模な抗議行動を展開し、その計画を打ち破ろうとしています。その中で、次々と学生も立ち上がっています。大学はストライキによって閉鎖され、食堂は無料。貧困層に対して、学生の手による無償教育の実施が始まっています。教育が金融資本の利殖事業となることに抵抗する中で、万人に開かれた公教育の復権が始まっています。

 日本でも沖縄の情勢が、同質のことを示しています。衆院選で300議席を超える大勝利のもとに誕生した鳩山政権は何によって崩壊したでしょうか? それは周知の通り10万人にせまる県民が結集し「米軍基地を撤去せよ」と訴えた沖縄県民大会。そして、それを引き継いだ516日の普天間基地包囲行動です。そこには京大をはじめ全国からも多くの学生が参加しましたが、その中心を担ったのは自治寮の学生です。自らの住む寮で自治を貫き、あらゆる問題を共同の討論と決定で解決することで、自治寮の学生は政治を取り戻していく。この自治の高揚の中で、時の政権を崩壊させるような民衆の行動にも積極的に参加するということが始まっています。

 このような学生の直接行動による大学と社会の根底的変革にこそ、歴史を前進させる教育を維持し、発展させていく可能性がある、と私たちは考えます。

 

 ここまで読まれて、「急進的な変革でなく、漸進的な改良を」と思う方も中にはおられると思いますので、その点に関してわたしたちの見解を述べさせてもらいます。漸進的な改良とは、その時代を主要に支配する勢力にそれをやる体力があることが条件です。あらゆる政治は理念のみでは成り立たず、お金や組織力などの物質的基盤を必要としています。そして現在の主要な支配層は貨幣の多寡で支配力を表現する方たちですが、進行する情勢の中で明確になっていることは、貨幣そのものの支配力の喪失です。だからこそ、ギリシャの学生は金がないのに大学を新しい形態で持って運営しうるし、貨幣の力を政治力に転換してきた方たちの支配力は相対的に減少しています

 ゆえに漸進的な改良は成立の根拠をますます狭め、根底的変革が可能になる根拠はますます大きくなっていると考えます。そして、何より漸進的な改良の主体はあくまでも現在の支配層ですが、根底的変革の主体は私たち自身です。

 7月11日の参院選に向けてあらゆる政党が学生に「政治をやれ」と煽っています。まったくもって正しい煽動です。しかし、私たち学生がやるべき政治は何も7月11日のその日だけ「清き一票」になることに限定される必要はありません。1365日、いかなる時も、学生が政治をおこなうことができるような大学と社会をつくることこそが、政治をやれを煽動する政治家たちに対する最も誠実な返答でしょう。

 

(3)大学を奪還しよう!

 

 京都大学をはじめとしたすべての大学を、未来の代表者である学生の手に奪還したい。学生自治の復権、それは時代が私たちに求める要請であると考えます。

 ということで、学生自治の復権にむけて、大学奪還学生行動は2つの具体的方針を提起します。

 一つは対当局行動。いま大学はあらゆることを通して学生から決定権を奪い、「決定権は大学にある」と言いながら、大学と教育を私物化しようとしています。大学の決定権をめぐる事柄の全てにおいて学生は声をあげ、奪い返していきましょう。何より今、京都大学の中でいろんなところから「ストライキをやりたい」、「総長を引っ張り出して団交をやりたい」という声が挙がっています。ならばそれをやりましょう。そのためには総長が出てこざるを得ないような広範な学生の声が必要です。だから、わたしたちは京大における決定権をめぐる問題の全てを見逃さず取り組みます。授業の空洞化。二重登録禁止、学費高騰、奨学金、非正規職解雇、寮自治への支配介入、サークル規制、キャンパス規制、高学歴ワーキングプアの増加等々。これらは全てこの京都大学で起きていると同時に、あらゆる大学で起きています。京大から学生自治を復権し、全国の学生を牽引していくことも展望していきたいと思います。

 もう一つは自治講座。大学をおもしろくしようと提起しましたが、結局のところ何を「おもしろい」とするのかはそれぞれの主観の問題です。そして、全ての人の主観に一致するモノというのは想定することはできません。であるならば、問題は何を提供するかではなく、学問の担い手である学生の能動性、積極性、主体性が発揮されるかどうかということです。おもしろいものを要求し、自分は受動的であるというのは論理矛盾。自分で創ってこそ大学はおもしろいのではないでしょうか? カリキュラム化され、空洞化する授業。出欠をとって、単位をぶら下げてでないと学生を集められない授業の支配をうち破り、学生の積極的な行動によってのみ成立する学問をうち立てたい。それこそ、人間を自由にする真理の探究であると考えます。そして、私たちは授業と両立するような、共存するような自主性をうち立てることは提起しません。私物化され、主体性を失いつつある授業をうち破り、学の独立を成し遂げるものとしての自治講座をこそ、多くの学生と共同して創っていきたいと思います。

 

 ここに提起させて頂いた二つの方針は、いずれも学生の主体性と共同の意思に基づく行動を前提にしてのみ成立するものと考えます。だからこそ、この行動を通して学生は奪われてきた決定権を奪い返し、あるいは新たに取得し、学生の自治をうち立てる主体へと飛躍することができると私たちは確信します。

 7月15日、大学奪還学生行動を正式に旗揚げします。「大学を、教育を、自らの手に取り戻して、おもしろくする」このことに興味をもつ全ての学友に、ともに大学奪還の旗を掲げよう!と呼びかけます。

2010年7月5日 大学奪還学生行動実行委員会(準)

◎7・15「大学奪還学生行動」
日時 7月15日 18:30~

 

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[ 2010/07/10 00:23 | Comments(0) | TrackBack() | お知らせ ]

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